あれから30年 その後のミニマリスト

節約しすぎないシンプルライフ

萩尾望都『一度きりの大泉の話』

1972年9月、マンガ家たちが4人、ヨーロッパへと旅立ちました。メンバーは、山岸凉子萩尾望都竹宮惠子増山法恵。44日間かけてハバロフスクストックホルムブリュッセル、パリ、スイスを経て、ローマ、ヴェネツィアと回りました。

モスクワでは、ボリショイのバレエを。マイヤ・プリセツカヤの「アンナ・カレーニナ」です。オーストリアでは、ウィーン少年合唱団を鑑賞。新進作家がそろって渡航し、帰国後大きく花開く。まるで明治初期の使節団のよう。

旅で萩尾が気づいたのは、気温、日照時間、植生の違い。それは、のちに樹木の描写に生かされた。

当時は、1ドルが300円ほど。飛行機のチケットも高額でした。萩尾は臨時収入で得た30万円を、ほかのメンバーはお土産込みで60万円を使い果たしました。

竹宮はデビューが早く、すでにマンガ家として売れていた。山岸は「アラベスク」を連載中で、萩尾は「ポーの一族」の最終回の原稿を旅の途中で仕上げた。

3人は著名でも、増山という名に心当たりがありません。いったい誰なのか、長い間疑問でした。彼女は音大をめざす浪人生で、実家に旅行費を出してもらったとのこと。

増山は、萩尾と竹宮が一緒に住む場所を見つけてきた人です。のちに、竹宮のブレーンとなり、作品作りに関与します。2人が住んだ長屋は「大泉サロン」として有名になりました。帰国してすぐ、竹宮の申し出により、2年つづいた同居は解消されました。
そこがどんなところだったのか、萩尾が答えてくれます。

一度きりの大泉の話

この本が出版されるまで、本人による言及がまったくなく、気にしていないのだと思っていた。読んでみたら、その逆で、気にしすぎて封印していたことがわかった。萩尾にとっては、思い出したくもないこと、他人にふれられたくないことだった。

「大泉サロン」がことさらとりあげられるのは、それで商売したい人がいるから。便乗本もすでに出ている。ファンとしては、ほじくり回すことなく、自分のこころにしまっておこうと思う。