あれから30年 その後のミニマリスト

節約しすぎないシンプルライフ

屋敷が広いのも悪くない

いま赤楽天が幅をきかせているけど、平安時代楽天がいちばん人気だった。
源氏物語枕草子などに引用されている。

平安の中ごろには、文人たちは世を捨てた侘び人に憧れるようになる。
出家するだけでなく、寺さえ捨てて諸国を行脚する聖も現れた。
紫式部日記」では、聖にひかれる思いをつづっている。
式部はまだ30代、貴族出身の職業婦人なのに。
そのころ念仏がはやっていたのも関係ありそう。

大隠は都会に住み、小隠は林丘に住む。そんな極端なのはダメ、官の仕事とプライベートを両立させる中隠がベストなんだ、と宣言したのが白楽天

科挙に受かったキャリア官僚なので、長安で宰相(いまの事務次官クラス)になれるはずだったのが、左遷されてしまう。
江州に赴任したときは、一族の子どもたちも呼び寄せ、14人家族になった。下男下女を含めると、20人ほどを一人で養った。
いったんは復帰するも、洛陽にて閑職に。

晩年に住んだ「履道坊の家」の想像図を見ると、敷地が広々している。母屋のほかに、草庵、竹林、中島が3つもある大きな池、楼閣も。屋敷内に妓女を住まわせ、琴や舞を楽しんだ。

朝は身ぎれいにして座禅、日が高くなったら質素な食事、正午は窓辺で昼寝、夕方は散歩、ときには詩を吟じ、夜は琴の演奏を聴きながら一杯。

こんな調子だから、75歳まで生きた。当時としては、かなりの長命。

詩、酒、琴、釣りが大好きだった。生涯で作った詩が約3000首、琴は毎朝同じ曲を弾き、酒は自家製。麴まで自分で選んだ。
屋敷は広くても、家族が多かったので、衣を質入れしないと薬代を払えなかった。

鴨長明良寛が住んだ小さな家もいいが、一度は白楽天のような広いお屋敷に住んでみたい。

清閑の暮らし: 隠者たちはどんな庵に住んでいたのか